2020年11月25日、サッカー界のレジェンドの一人であるディエゴ・マラドーナが心臓発作により
アルゼンチンの国内の病院で亡くなったという情報が入りました。
そこで、20世紀代希代の名手であるマラドーナの半生を調べ、ここに記そうと思います。
間違いなどあったら、ご指摘をお願いいたします。
マラドーナの幼少期
マラドーナは1960年8月30日に、8人兄妹の5番目の息子としてこの世に生を受けました。当時家庭は、
お父さんは当時レンガ工場の作業員として働いていて決して裕福とは言えない家庭環境にありました。
それがマラドーナの成功へのハングリー精神を育てた一因でもあると言われています。
マラドーナが最初にサッカーに触れたきっかけは、従兄からプレゼントとしてもらった
サッカーボール一つから始まりました。
このもらったボールが盗まれるのを避けるために
枕の横において肌身離さず常に一緒にいたと言われています。
時は流れて、
8歳の時からマラドーナは近所のクラブである「エストレラ・ロハ」といういうなれば、
どこにでもある地元のサッカークラブに所属していてそこで才能の片鱗をみせていたそうです。
しかしながらその才能がスカウトの目に入らないわけがなく、
一年後の9歳の時にスカウトされ、首都ブエノスアイレスに本拠地を置くチーム
「アルヘンティノス・ジュニアーズ」の下部組織に入団することになりました。
そこから順調にステップアップをしていきプロデビューを飾ります。
途中12歳の時にアルゼンチンの名門であるリバープレートというチームから
200万アルゼンチンペソの契約金の話があったそうですが、父が時期尚早として
断ったそうです。
(現在の200万ペソは、日本円にして約260万円程などで昔ならもっとしていたかもしれません。)
伝説の始まり
ディエゴ・マラドーナは、1976年8月20日、自身16歳の誕生日の10日前に、
当時アルゼンチンリーグ史上最年少サッカー選手としてのプロデビューを飾ります。
そこから五年間(1981年まで)この下部組織から所属していた「アルヘンティノス・ジュニアーズ」に所属していました。
そこの約五年間で、167試合115ゴールを決めて、南米最優秀選手賞やアルゼンチンリーグの得点王も獲得しました。
1981年400万ドル(当時の日本円にして大体8億円)というものすごい移籍金を残して
アルゼンチンの名門クラブである「ボカ・ジュニオール」に移籍しました。
(レンタルで入ったとも書いており、ここの情報はあまり定かではないので分かりません…すみません)
当時獲得を目指していたクラブは他にもあり、下部組織時代に獲得しようとしたリバープレートが
当時の最高水準の年俸を用意して獲得を狙っていたそうです。
しかしながらマラドーナは生粋のボカ・ジュニオールファンだったのでその移籍を断って、
子供のころから愛するクラブへの移籍を決めました。
当然そこでもすぐに大活躍をしボカのファンを虜にしました。しかしながら、
彼のボカ・ジュニオールのキャリアは、約一年で終わりを告げます。
欧州での活躍
バルセロナ編
FIFAワールドカップ1982年大会の後、マラドーナは名門バルセロナへの移籍を決めました。
残念ながら、バルセロナでの彼のキャリアは成功したというにはほど遠いものでした。
最初こそ、カンプノウでお披露目を開いた際には、五万人以上の観客が詰め寄せましたが、
当時期待されたほどのクオリティは見せられませんでした。
国内カップ戦などは獲得しましたが、あまりにも多すぎる問題行動や薬物の使用疑惑などで、
バルセロナ当時の会長との仲が修復不可能なまでに悪化してしまいました。
そしてマラドーナは約二年でバルセロナを去ることを決意します。
SSCナポリ編
マラドーナが欧州で輝いたのは、ナポリと断言できます。
当時サッカー史上最高額となる690万ユーロでSSCナポリに移籍します。
当時SSCナポリは現在ほど強豪と言われるクラブではなく、リーグで下位に沈んでいたチームの一つでした。
ですが、マラドーナが移籍した後から財政的にも成績的にも著しく上昇していきました。
マラドーナ初年度の順位は、リーグ戦8位にジャンプアップし、2年目にはリーグ3位という快挙を成し遂げました。
さらに三年目の1986/1987シーズンにリーグ優勝、国内カップ戦制覇を果たします。一人の王様がいるだけチームが変わるんですね…(笑)
同時期にFIFAワールドカップ1986年大会が開催され、見事優勝さらに大会最優秀選手という偉業を成し遂げました。
さらにサッカーファンにとって最も印象深いのは、準々決勝のイングランド戦で見せた
「神の手」と怒涛の「五人抜きゴール」ではないでしょうか。
このゴールは今でもYoutubeなどに載っているでぜひご覧になってください。
ナポリには1991年までに所属して、合計で、188試合88ゴールを挙げて退団しました。
現在ナポリは、下位クラブだったチームを常勝チームに引き上げてくれたマラドーナに感謝して、
マラドーナがつけていた10番を永久欠番にしました。それは現在も続いています。
キャリア終盤
1991年、キャリア終盤に差し掛かっているマラドーナは、当時Jリーグ発足にむけてビックネームを欲していた
名古屋グランパスエイトから声がかかりましたが、契約直前にマラドーナにまたもコカイン使用疑惑が出てしまい
マラドーナは、15か月間プレイ禁止という厳しい制裁下されました。結果、この契約は水の泡となってしまいました。
そのあと、アルゼンチンを優勝に導いた監督が就任していたスペインのセビージャというチームに入団しますが、
練習態度の怠慢さやまたも問題行動や薬物使用疑惑で監督の逆鱗に触れてしまい、成績も26試合5ゴールという
寂しい成績になってしまいました。
その後、古巣であるボカ・ジュニアーズに戻ってきますが、
過去の輝きを取り戻すことはできず37歳の年齢で現役を引退しました。
現役を引退する際に語った言葉が印象的で、
「私は数々の間違いを犯した、
けれどフットボールを汚したことは一度たりともない」
この名言は世界中に知れ渡り、今も語り継がれています。
監督してのマラドーナ
マラドーナの監督して最も成績を残したチームは、アルゼンチン代表チームでしょう。
2008年にアルゼンチン監督に就任し、
2010年ワールドカップでマラドーナ二世と言われたリオネル・メッシと共に
ワールドカップベスト8を果たしています。
しかしながら、その後の監督人生は鳴かず飛ばずといった感じです。
最後に
正直、僕は現役時代のマラドーナを見たわけでもありません。
ただ、一人のサッカーファンとしてマラドーナは伝説の人物であることを理解しています。
そして、人間味溢れる人間であることがここまで人々に好かれているんだと思います。
2018年ワールドカップの時に、マラドーナはアルゼンチンを全力で応援するあまり、
対戦相手に対して中指を立ててしまうなんてこともありました。
でもそこまでサッカーを愛していたという事実があります。
そんな彼に敬意を表して
RIP Diego Maradona